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龍谷大平安野球部、原田英彦監督の平安愛

   

京都の名門、龍谷大平安高校。龍谷大平安を率いる原田英彦監督は小学生の頃からの平安(当時)ファンだった。監督になってからも、平安を愛し続けた原田監督の経歴、平安愛、指導について調べてみた

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経歴

中学校から平安に入学するつもりだったが叶わず、高校受験で念願の平安高校に入学をする。野球部では俊足の外野手として活躍、2年秋に近畿大会まで進出するも、天理(奈良)に敗れて甲子園出場は逃した。

卒業後、1979年に日本新薬に入社。野球部で13年間プレーし、10度の都市対抗野球出場を果たす。引退後、日本新薬の社員として働く。平安野球部監督就任の要請を受けるも会社への恩返しを考え1度は断る。しかし、家族や周囲のすすめもあり、平安愛が甦る。1993年、平安高校野球部監督に就任する。

就任4年目の1997春、1980年以来実に17年ぶりに選手監督時代を通じて自身初の甲子園出場を果たし、ベスト8に進出する。夏も久々の甲子園に出場するとエースで4番でキャプテンの川口知哉投手を擁して決勝進出。全国制覇まであと一歩だったが智弁和歌山に敗れて準優勝に終わる。

それからもコンスタントに結果を残し続けた原田監督だったが、全国制覇には届かなかった。しかし、2014春の甲子園で履正社との近畿対決を制して、悲願の全国制覇を成し遂げた。

ユニフォームへのこだわり

生粋の平安ファンである原田監督にとってユニフォームにもこだわりがある。ナイターの試合でカクテル光線に照らされて青光りするユニフォームが好きだという。監督になって、選手当時のメーカーがなくなっていたので、自身のイメージするユニフォームを探し回ったという。

龍谷大平安と名称が変わったとき、袖に「龍谷大学」と書かれているだけのモデルチェンジにも関わらず、着るのに抵抗があったようで当時のキャプテンに着せてもらっていたという話がある。

キャッチボール

原田監督はキャッチボールのできない選手にバッティング練習をさせない。自身が長く野球ができたことは、子供の頃からキャッチボールをやり続けたからだと思っている。ボールが投げれるようになってから、守備練習に入る。高校時代に守備の基本を身に着けないと、上のカテゴリーでは通用しないと原田監督は考えている。

原田監督は日本新薬時代に、プロから声がかかった事があった。しかし、自身の肩の弱さを自覚していたため、プロに行く決断ができなかったそんな経験からもボールをしっかり投げられるようになるまでキャッチボールを指導する。

キャッチボールと同じくらい大切にしているのは声である。目標は常に甲子園であるため、大観衆でも届くような声が出せないといけない。野球でも社会でも声が出せて損をすることは絶対にないというのが原田監督の考えである。

自分自身をアピール、意思表示のためにも声は必要不可欠である。甲子園で準優勝したチームも良い意味で、口論するくらい自己主張していたという。

将来を見据えて

龍谷大平安の選手たちは、大学・社会人で野球を続ける事がほとんどである。社会人や大学では自分で考えてプレー・練習することが求められる。そういった環境でも長くプレーできるために原田監督も言いたいことを我慢することがあるという。

龍谷大平安の卒業生という目でみられるので、選手にはプライドをもって野球に取り組んでもらえるように、日頃からプライドを植え付けるようにしている。

まとめ

時には球場や球場の外で、平安ファンと口論になることもあったという。最終的にお互いが平安ファンという事で収まったというが、そんな行動からも原田監督の平安愛が伝わってくる。大好きなチームを率いて甲子園に出るのはどれほど幸せな事だろうか。苦労もあるだろうが、非常に羨ましく思ってしまう。まだまだ原田監督の青春は続いていくんだと思う。これからも龍谷大平安の活躍を期待している。

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