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鳴門高校野球部を甲子園常連に育てた森脇稔監督

   

徳島県の夏の予選で五連覇を果たした鳴門高校野球部。鳴門を率いるのは鳴門OBの森脇稔監督である。森脇監督が鳴門を指揮してから甲子園出場までには四半世紀を要した。しかし今や徳島の王者である。森脇監督の経歴や指導法について調べてみた。

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経歴

鳴門市で生まれ、鳴門一中を経て鳴門で野球部主将、内野手として活躍するも甲子園出場はできなかった。卒業後は法政大学へ進学。野球部では選手ではなくマネージャーとしてチームを支えた。同期には小早川毅彦氏(元広島東洋カープ)がいる。後に森脇監督率いる鳴門が神宮大会に出場した際は応援に駆けつけている

法政大学卒業後、1985年、鳴門高野球部監督に就任。1995年春まで率いるも甲子園出場は果たせなかった。その後、特別支援学校、徳島工(現・徳島科技)を経て、2007年に鳴門高監督に復帰2010夏の甲子園に初出場すると、春は2012年,2013年と連続出場夏は2012年から2016年まで5年連続出場を果たした。2012春と2016夏にはベスト8入りを果たし、全国の強豪として認識されている。

選手との距離

森脇監督の選手への指導は練習場を見渡せる二階にある監督室からマイクを通して厳しい言葉をかける事が多い。厳しい言葉をかけて反骨心を煽るタイプの監督である。

高校生を納得させる技術論があるからこそ、そういう指導ができる。厳しい言葉と的確な技術指導のバランスが良い結果に結びついている。選手達は監督を見返すため、毎日努力を重ねている。「僕は嫌われてもいいんです」と森脇監督は話す。しかし選手達を甲子園へ連れて行ってあげたいという思いは強い。その思いが伝わっているから選手達は、森脇監督監督についていくのだと思う。

支援学校での経験

森脇監督は始めに鳴門を指導していた頃は厳しく叱るばかりの指導だったという。前途したように今では、厳しい事も言うが、着きすぎず離れすぎずのよい距離がとれている。しかし当時は選手との距離は離れっぱなしだった。

そんな森脇監督を変えたのが板野支援学校への異動だった。支援学校では障害のある生徒一人一人の特性に応じた教育が求められた自身の指導を見直すきっかけになった。その経験を踏まえ2007年に鳴門の監督に復帰した後は選手と会話し、その選手に合った指導をするように心がけたという。

守備

「うずしお打線」で有名な鳴門だが、活発な打線に繋げる選手達の守備の意識の高さが素晴らしい。森脇監督は個人に特化した練習からチームの実戦練習に結びつける。実戦形式のバッティング練習では二階から森脇監督が目を光らす中、集中したトレーニングが続く。

少しでも気を緩めたら森脇監督のマイクの餌食になる。そうやって鍛えあげられた守備に注目してほしい。打者ごとでなく、1球ごとに選手達のポジショニングが違う事がわかる。

うずしお打線

鳴門の代名詞「うずしお打線」とは、鳴門が初出場となった1950夏、準優勝を果たし当時の最高打率(.362)を更新したことから名付けられた。強打を武器に1951春は優勝。1952春は準優勝した。

現在も打線は活発で「伝統のトンボスイング」なる名物練習がある。整備用のトンボを腕の力でゆっくり振る練習を50~100スイング冬場は山道、海岸などを長時間走り込んで足腰を鍛え強力打線を作り上げる

まとめ

森脇監督は苦労の末、鳴門を全国の常連に育て上げた。その境遇は同じ徳島の蔦文也氏(元池田監督)に似ているようにも思える。徳島は今だ公立高校の時代が続いている。今は鳴門がその中心である。うずしお打線が甲子園で暴れ回る事を期待している。

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