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大垣日大高校野球部、阪口慶三監督の歴史

   

高校野球百戦錬磨の名将、大垣日大阪口慶三監督。甲子園に通算30回出場し優勝1回、準優勝3回、通算勝利数37という結果を残している。阪口監督のこれまでの歩みを振り返りながら現在のスタイルに至るまでを書いてみたい。

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経歴

東邦高校に入学し、投手兼一塁手として活躍。1961春甲子園出場を果たし、控え選手としてベンチ入りした。卒業後は愛知大学に進学し強打の一塁手として活躍。卒業後の1967年、東邦高校野球部監督に就任1977夏の甲子園で1年生右腕の坂本佳一投手を擁し準優勝を果たす。

1980年代に入って甲子園には出るが勝てなかった。しかし、1988春、2年生左腕の山田喜久夫投手を擁し初戦を突破すると、決勝まで勝ち上がる。決勝では上甲正典監督率いる宇和島東(愛媛)に敗れて準優勝に終る。翌1989春も決勝まで進み、元木大介選手、種田仁選手を擁する上宮に延長10回劇的な逆転サヨナラ勝ちで自身初の全国制覇を果たした。

2004年夏東邦の監督を退任する後任は1977夏準優勝時の4番・主将で1984年からコーチを務めていた森田泰弘監督。(※東邦・森田監督の記事はこちら)
2005年春、岐阜県の大垣日大野球部監督に就任すると早くも2007春の甲子園に希望枠で初出場。決勝で常葉菊川に敗れるも、準優勝を果たす。夏も初出場を果たしベスト8まで進んだ。

2009年秋、東海地方代表としてチームてしても監督としても初の明治神宮野球大会に出場し、優勝。甲子園大会ではないが、全国制覇を果たした。最近では2014夏の甲子園に出場、初戦で8点差を逆転する名勝負をしている。

鬼の阪口

東邦の監督就任当初、愛知は中京(現・中京大中京)の天下であり、阪口監督にとって中京に勝つことが甲子園に近づくための第1歩だった。学校側のプレッシャーもあり、胃を痛めながらも妥協を許さない厳しい指導を行った。その厳しさは「鬼の阪口」として恐れられる程のものだったという。

厳しい指導が実り始め、1969年から三年連続で夏の甲子園に進出する。それからも厳しい指導は続いたが、阪口監督にある転機が訪れる。それは1988春の決勝、宇和島東戦だった。後にこの試合をビデオで見た阪口監督は気付く。笑顔で選手を送り出す上甲監督に対し、自分は怒りの表情で選手を叱り飛ばしている阪口監督は、監督のマナーの差で負けたと悟った

仏の阪口

宇和島東戦以来、阪口監督はベンチで笑顔を作るために練習をしていたという。実は上甲監督の「上甲スマイル」に影響を与えた箕島(和歌山)の尾藤公監督も鏡を前に笑顔の練習をして尾藤スマイル」を作り上げたという。

翌年、見事に全国制覇を果たし、この頃から指導や選手への関わり方を考えるようになった。大垣日大でも、怠慢プレーには厳しく指導するも、普段は一緒に温泉や映画などに行くなど選手と良い距離を保っている。

ベンチでの表情も豊かで、ピンチの時や緊迫した打席に向かう選手に笑顔で接する阪口監督を見る事ができる。それはまるで尾藤監督や上甲監督を見ているようで、高校野球ファンの私の涙腺を刺激する。

まとめ

高校野球は選手が主役である。しかし、育成年代の高校野球において監督が果たす役割は非常に大きい。時代が変われば選手も変わる、阪口監督もその変化に対応したのだと思う。鬼の時代にも根底に選手達を勝たしてあげたいという優しさがあったから、今の阪口監督があるのだと思う。

大垣日大の選手やOBも思っている事だろうが、甲子園で胴上げされる阪口監督の姿が見たい。その時、阪口監督は満面の笑みをたたえているに違いない。

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