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流経大柏サッカー部、本田裕一郎監督のサッカーにかける情熱

   

流経大柏サッカー部本田裕一郎監督は全国屈指の名将である。千葉県をサッカー王国に育てるきっかけを作り、自身も監督として全国を計6度制覇した。そんな本田監督について調べてみた。

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経歴

本田監督はサッカーどころ静岡県出身である。しかし自身がサッカーを始めたのは高校2年生の頃だった。高校卒業後に順天堂大学に進学し、サッカーを続けた。千葉県市原市の教育委員会に就職し、勤務していたがサッカーを教える事の楽しさに気付き、教員採用試験を受ける事になった。

市原緑に赴任した本田監督はサッカー部監督になり、厳しい指導と遠征を重ねてチームを強豪に育てあげ、1983年にはインターハイ出場を果たした。1986年に習志野に転勤すると、テクニックを中心とした指導でチームを全国の常連に育てた。1995年のインターハイを制し、自身初の全国制覇を成し遂げた。

2001年、流経大柏に移ると環境面の整備でチームを育成し、2007、2013高円宮杯U-18を制覇。第86回全国高校サッカー選手権を制覇。2008、2017インターハイの制覇など輝かしい成績をおさめている。

ライバルの存在

本田監督には無くてはならないライバルがいた。それが市船橋である。本田監督が市原緑時代、市船橋はまだ無名の存在だった。しかし布啓一郎監督就任をきっかけに急激に成長し、千葉県の象徴となった。

本田監督は習志野の監督に就任し、打倒市船橋、打倒布監督に燃えた。アルゼンチン、ウルグアイへの海外遠征、有力選手の獲得に力を入れるなど市船橋に対抗すべく幾多の手段を模索した。

布監督も本田監督も負けず嫌いであり、お互いライバル心剥き出しでバチバチやり合ったという。しかしピッチを離れると酒を飲みながらサッカー談議に花を咲かせる仲でもあった。布監督が市船橋を離れてからも市船橋とのライバル関係は続いており、インターハイ決勝でも相まみえている

市船橋サッカー部の記事はこちら

指導法

市原緑時代の本田監督はスパルタ指導を行っていた。選手を強引な力で引き上げるような指導法だったと本田監督は語っている。時代がそれを許していたのもあるが、選手が萎縮するという点で良い指導につながっていなかったと本田監督は述懐している。

習志野時代には出身地の静岡県の強豪、静岡学園のサッカーへの憧れからテクニカルなサッカーを指導するようになる。アルゼンチンやウルグアイへの海外遠征などを経験し、テクニックを有するJリーガーを数多く育てた。

流経大柏に移ってからは寮や専用グラウンド等の環境面の整備に力を入れた。選手達のメンタル強化のため、挨拶、掃除といった日常生活から見直し、自身の目標をはっきりさせる取り組みを行った。また流経大柏グラウンドでジュニアユースチームの指導を開始し、チームの底上げを図っている。

勝つ事

本田監督は根っからの負けず嫌いである。今では勝つためには守備を固める戦法もとる。勝敗より内容を求める昨今の風潮を良しとせず、まず勝ってから内容を求める姿勢である。

本田監督は国見がロングボールを多用したサッカーで全国制覇し批判を浴びていた時も、批判する人達を「勝ってから言え」と一刀両断していたのが痛快であった。根っからの勝負師、言い訳や負け惜しみが見苦しかったのだろう。

国見は勝つために選手の特徴を活かした戦術をとったまで先が無いどころかそのチームから日本代表やJリーガーが生まれている。本田監督もチームの特徴を活かした戦術で何度も全国を獲った。そういった意味では本田監督と小嶺忠敏監督は似ているのかもしれない

サッカー王国千葉県

布監督とのライバル関係、市船橋-習志野時代から市船橋-流経大柏時代に移行した中で、周辺のレベルが上がってきている。八千代中央学院習志野日体大柏など2強を脅かす存在が増えて来ているのも事実である。

本田監督は1997年に台頭する九州勢(国見鹿児島実東福岡)に対抗すべく関東スーパーリーグを立ち上げた。もちろんライバルの布監督も設立メンバーに加わっている。これが後の高円宮杯プレミアリーグ、関東プリンスリーグに繫がる事になる。2018年には最高峰のプレミアリーグイーストに千葉県から流経大柏市船橋柏レイソルの3チームが所属する。まさにサッカー王国である。

最後に

本田監督は70歳をこえた今でも闘志を燃やして指導にあたっている。奇しくも小嶺監督も現場復帰し、インターハイで相まみえている。まだまだこれからも本田監督の戦いは続いて行きそうである。これからの活躍を大いに期待している

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