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帝京高校野球部、前田監督の目指すチーム

   

甲子園3度の優勝を果たし、名将として有名な帝京高校野球部前田三夫監督。前田監督は現在に至るまで、全国制覇を果たしながらもその妥協なき指導スタイルから周囲の批判も浴び、苦労してきた監督である。迷いながらも帝京を誰しも認める強豪校に育て上げた足跡を追ってみた。

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監督になるまで

前田監督は千葉県袖ヶ浦市出身で高校は木更津中央高校(現・木更津総合)に入学。野球部に所属し三塁手としてプレーするが甲子園の出場経験は無い

帝京大学に進学し、野球を続けるが最後まで公式戦に出場することはできなかった。しかし、その大学4年の時に大学の新入生を教える立場になり指導者の魅力に気付いた。周りの声もあり、大学在学中に帝京高校野球部監督に就任した。

スパルタと批判

1972年、22歳の若さで監督に就任した。若さもあり、前田監督は情熱に燃えていた。厳しい練習に耐えきれず、部員が次々に辞めていった。批判が出ないわけがなく、職員会議も開かれたが前田監督は折れなかった。

そして結果を出して応えた。1975年の春、就任3年で東京都大会を制してみせた。そして1978春の甲子園に初出場を果たす。批判を結果で押さえてきた前田監督だったが、スパルタと帝京OBでない事は学校関係者の中では燻り続けていた。

1980春の甲子園に出場すると伊東昭光投手の活躍などで準優勝を果たす。夏も期待されていたが、まさかの初戦敗退。春をかけた秋季大会にも敗れると、燻っていたものが燃え上がった。関係者にサンドバッグ状態にされながらも「1年以内に甲子園」を公約にあげ、首を繋いだ。

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衝撃の敗戦

公約を果たし、1982春の甲子園に出場した前田監督の前に立ちはだかったのは池田高校を率いた蔦文也監督だった。やまびこ打線と呼ばれる強力打線の前に0-11の大敗を喫する。

「監督としての器が違う」と前田監督は蔦監督を目標として努力を始める。蔦監督がこだわったように教員として教壇に立つことを目指して。監督の傍ら、通信教育で5年の歳月をかけて教員免許を取得した。そして1989年夏の甲子園で前田監督はついに全国制覇を果たす

勝負への執念、前田監督の迷い

前田監督は全国制覇を成し遂げてもしばしば批判の対象になった。地方予選の控え投手を登板させたいとコールドを避けた試合でも批判が集中して甲子園でもヒール扱いになってしまった。私も当時は帝京に良い印象を持っていなかった一人であり、今は反省している。選手は一生懸命やっていた。選手が可哀想であった。

前田監督も反省し、以来勝負への執念は持ちつつも自主性に任せた時期もあった。しかし、選手達が敗けた試合のあとでも淡々としている事と自分の勝負への執念の間に大きなギャップを感じ、前田監督は悩んだ

渡米して見た試合の再現

指導者としての答えが見つからなかった前田監督は野球発祥の国、アメリカに立った。ワールドシリーズにてサンディエゴ・パドレスのファンがチームが負けても勝っても立ち上がって声援や拍手を送る姿を見て感動する。自分もこんなチームを作りたいと思うようになる。

そして、その光景は甲子園で甦る。2006夏の甲子園準々決勝。帝京vs智弁和歌山。4-8敗戦濃厚の九回表、ピッチャーに代打を出し最後の攻撃に賭けた帝京は代打の選手は凡退するも粘りに粘って得点を重ねる、そして遂には逆転に成功する。そして打順は一巡してこの回先頭打者だった代打の選手に回ってきた。止めのスリーランホームランが出た。誰しもが帝京の逆転勝ちを疑わなかった。

しかし智弁和歌山には裏の攻撃が待っていた。ピッチャーを使い果たした帝京に襲いかかる強力打線。お返しのスリーランが出て一点差、ストライクが入らない帝京ピッチャー、フォアボール狙いもあったが打ちにいく智弁和歌山。一球毎に甲子園が沸いた。私もこんな試合を見たのは初めてだった。試合は押し出しサヨナラで帝京が敗れたが、観客は全員が立ち上がって拍手を送っていた。それは前田監督がアメリカで見た光景だった

まとめ

度々解説者としてテレビにも登場する前田監督、その言葉から高校野球や球児に対する愛情が感じられる(言葉は厳しい時があるが。自身が補欠だった事もあり、控え選手にもプロの他にも進む道がある事を伝える。誰よりも高校野球と球児の事を考えているのが前田監督なのだ。

前田監督のもと育った球児が高校野球の監督になり、甲子園で帝京と対戦なんていう場面を見たいと思うのは私だけではないだろう。情熱の火が消えない限り前田監督の戦いは続く。

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